3月 5日(土) 東京大空襲60周年のつどい
 3月26日(土) 永井和子と神野和博・ささいはるみ
    in 沖縄コンサート

    

東京大空襲60周年のつどい(2005.7.8作成)


 きっかけ 
昨年(2004年)10月末頃永井和子さんから次の内容の電話がある。 「来年(2005年)3月5日(土)に東京大空襲60周年のつどいが江東区であるのだが参加できるか?また集いのための新曲を作れないか?」
毎年3月の最初の金曜日〜日曜日には「いずみ春の祭典」があり、我々「ドリーム」と「国分寺うたう会」は土曜日に出演している。
ちょうど日程がバッティングしてしまいどうしようかと二人で話したが、我々を知ってもらうこんないい機会はない、と言うことで永井さんに承諾の連絡をする。
いずみ春の祭典への出演は日曜日にすることで、うたう会のメンバーにも事情を説明して了解してもらうこととする。
この時点では正式決定ではなく11月中旬の実行委員会で了解されなければならない、とのことでその決定待ち。
永井さんから正式決定の連絡があったのが11月22日。
まだ詩はできていないが出来次第送るのでよろしく、とのこと。
ちなみに50周年の集いのときは、岡田京子さん作曲の「沈丁香の花と妹」が発表された。
 卒業写真 
12月6日永井さんからメールで60周年の詩が送られてくる。
   題して 「卒業写真〜東京大空襲60周年のつどいのために〜」。
60年前の3月10日。未明の東京・下町を襲ったB29は下町全域をなめつくし、焼け跡は死者で埋め尽くされた。亡くなった人はたった2時間でおよそ10万人。
60年という時間の経過の中で、当時の惨状を経験した人達は年々減っていく。自分を含めて戦争を知らない世代が多くなった。
歴史的な節目の戦後60年、早乙女勝元さん(東京大空襲・戦災資料センター館長)が訴える「伝えよ 学べ 今こそ」を実行に移すことの必要性を痛感する。

永井さんのこの詩は、まさに今、親から子へ、子から孫へ、戦争のない暮らしのすばらしさを何としても伝えていきたい、そういう願いを込めた作品です。
卒業写真東京大空襲60周年のつどいのために
お嫁にいくとき母さんが渡してくれた
卒業写真のアルバムは
幼い私がすわっている
まっすぐ前をみつめてる
それから話してくれたのは
六十年前の三月十日
母さんのそのまた母さんの
燃えてしまった卒業式


お嫁にいくとき母さんが話してくれた
東京大空襲のお話は
私の身体を痛くする
しっかり胸にうけとめる
生きられなかった悔しさを
繰り返させない三月十日
母さんのそのまた母さんの
燃えてしまった卒業式


未来に生きる子どもらに渡してやろう
卒業写真のアルバムを
幼い笑顔そのままに
まっすぐ生きてほしいから
それからきっと話してやろう
六十年前の三月十日
母さんのそのまた母さんの
燃えてしまった卒業式
 曲作り
さて、曲作りであるが、ちょうどクリスマスコンサートを目前に控えた時期で、さらに3/26には沖縄でのコンサートを控えて楽譜作り、練習にいとまのない時期であり、とりあえずはいつも詩を持ち歩いて、何度も詩を読みこなし、曲のイメージ作りから取りかかる。
その過程でメロディーをつける上で、どうしても言葉のつながりが各連で異なるところ、又言葉使い等、若干の修正をお願いしたところ了解いただき、その結果として上の歌詞で確定する。
永井さんからは誰でも歌える歌、やさしい歌、そしてあまり暗くならない歌、そんな歌にしてほしいとの言葉があった。
僕もこの詩は戦争の悲惨さを伝えるものではあるが、ただ単にその悲惨さを嘆くだけでなく、その事実を知ってもらい戦争を繰り返させない原動力になるような歌にしたかった。だから若い人にも歌ってもらえるような歌にしたいと思っていた。

しかしこの想いが自分に気負いを生んでしまったのか、何度も書き直しを繰り返しても、なかなか納得のいくものができず、ちょっと焦り気味であった。途中、こんな責任のある依頼を受けなければよかった、などと思ったこともあった。

年を明けてからは、永井さんから何度も曲の出来上がり具合を心配するメールをいただいた。更に、主催者の「東京大空襲・戦災資料センター」からもどんな曲か早く知りたいとの電話もいただいた。

そして何とか曲が出来上がったのが、1月中旬。詩をいただいてから1ヶ月半が経過していた。
更に、永井さんにはデモテープを送り聞いてもらい、手直しを加えたりして最終的に完成したのは1月の末であった。
 もうひとつの歌〜はこべの花は〜 
「卒業写真」が完成間近の頃、永井さんから別の詩が送られてくる。できれば、これにも曲をつけて発表したいとのこと。
タイトルは「はこべの花は」。
はこべの花は大空襲で多くの人が焼け焦げにされた場所に、春になると一面に白い可憐な花を咲かせたといいます。
永井さんはこの詩があっという間に出来たと言います。
そして曲作りの方はと言えば、「卒業写真」と違ってこれもあっという間にできたのです。
更に、永井さんに聞いてもらったところ一発OK。
こんなことはめったにあるものではない。
はこべの花は
おかあさん かあさん はこべの花は
どうして萌えるの 春の朝に
どうして揺れるの 春の風に
焼かれた土を いちめんの
みどりにそめる はこべぐさ
つめたい三月 風にゆれて
吐息のような 花をひらく
泪のような 白い花を

とうさん とうさん はこべの花は
どうして咲いたの 春の朝に
どうして光るの 春の風に
焼かれて炭に なった声
追われて赤く 燃えた川
つたえる三月 風のことば
消さずにいてと 花をひらく
夜明けのような 白い花を

とうさん かあさん はこべの花は
なにを ささやく 春の朝に
なにを はこぶの 春の風に
すべてのいのさ 消える日を
願って茂る はこべぐさ
明るい三月 風に笑う
歌うように 花をひらく
いのちのしるし 白い花を
 「つどい」の当日 
プログラム
   
11時頃会場の江東区総合区民センターに入る。
すでに実行委員の皆さんは忙しく準備に動き回っている。

永井さんも札幌から駆けつける予定である。
リハーサルの時間が来るのを待っていると、誰かがはこべの花を摘んできて我々に見せてくれる。「はこべの花は」を歌うことを知っている方が近くに咲いていたのを見つけて摘んできてくれたもの。
15分くらいの時間をもらいリハーサル。永井さんも生で聞くのは初めて。色々なアドバイスをもらう。
我々の出番はオープニング。13時30分、幕が開くとMCなしで「卒業写真」を聞いてもらう。
曲紹介、永井さんの紹介に続いて「はこべの花は」。
我々の役目はここまで。

あとは、高木敏子さんの講演「『ガラスのウサギ』と私」、ビデオ「東京が燃えた日」の上映、早乙女勝元さんのお話「東京大空襲60年の歩みと今考えること」と続き休憩。

ゆっくり座って聞こうと思っていたのだが、参加者が予想を超えて集まったようで、会場内は座ることはもちろん立って聞くスペースもなし。しかも、玄関わきのホールまで人に埋め尽くされていてとてもゆっくり聞く余裕はなし。
それでも、会場外にまで届くマイクに耳を傾け聞いていて心に残ったのは、高木敏子さんの次の言葉。
 「戦争を起こそうとするのは人の心。戦争を起こさせまいとするのも人の心。戦争を起こさせない人の心の輪を大きく広げていきましょう」


休憩後は「東京大空襲を語り継ぐ」取り組みの発表。
最初に「英語で学ぶ東京大空襲 物語と影絵」を中学校の先生と生徒さんで発表。
次に「私達が学んだ東京大空襲」ということで、小学生が戦災資料センターを見学した感想文を発表。
最後は「木琴」という歌を三郷市立早稲田中学三年七組の生徒が合唱。東京大空襲で焼かれた人々への思いを「木琴」に託していたったもの。妹とその妹が大事にしていた木琴を焼かれてしまった兄さんの気持ちを歌っています。
生徒さん達はこの曲を学校の合唱祭で発表しますが、歌うまでに道徳の時間を使って東京大空襲のことを学習したといいます。戦災資料センターに行きたくさんの資料を見たり、体験した人からじかに話を聞いたりしました。

初めて聞いた曲ですがいい曲でした。
木  琴
妹よ
今夜は雨がふっていて
お前の木琴がきけない

お前はいつも大事に木琴をかかえて
学校へ通っていたね
暗い家の中でもお前は
木琴といっしょにうたっていたね
そして よくこういったね
「早く町に赤や青や黄色の電燈がつくといいな」

あんなにいやがっていた戦争が
お前と木琴を焼いてしまった

妹よ
お前が地上で木琴を鳴らさなくなり
星の中で鳴らし始めてからまもなく
街は明るくなったのだよ

私のほかには誰も知らないけれど
妹よ
今夜は雨が降っていて
お前の木琴が聞けない
こうして東京大空襲60周年のつどい〜今語り継ぐこと〜は終わりました。
終了後我々は、札幌に帰る永井さんを見送りがてらお茶を飲みながら3月26日に沖縄で行われるコンサートの打ち合わせをしました。
 後日談〜その後の「卒業写真」「はこべの花は 
国分寺で〜いずみ春の祭典(3月6日)
翌日我々は「ドリーム」としていずみ春の祭典に出演しました。
歌う曲は15分で5曲。
すべて神野和博オリジナル曲で、作詩は4曲が永井和子さんの沖縄の曲。

昨日の大空襲のつどいが終わったあと、春の祭典で「はこべの花は」を発表したいね、ということで二人の意見が一致。
既に曲目は届けてあるのだが急遽変更して「はこべの花は」を追加することにする。

歌い終わって舞台から降りると見知らぬ女性から声をかけられる。曲を聞いて感動して声をかけてくれたものだが、8月に地域で平和をテーマにしたイベントを開く予定だが協力してくれないか、との依頼。
うれしかった。
札幌で
永井さんの地元札幌でも歌ってくれる方が増えているようである。
これからのものも入れるとメールをいただいた限りでも
 ・ 5/ 8 憲法フェスティバルで「はこべの花は」を。
 ・ 7/24 新婦人平和の集いで「卒業写真」を
 ・
 8/ 7 詩と音楽のピースウェーブで「卒業写真」を。
  8/?  新婦人小組みフェスティバルで「卒業写真」と「はこべの花は」
市原で
4月中頃、憲法を守ろう・市原市民連絡会の関係者からメールをいただく。
3/5の集いに参加された方で、5/3の憲法記念日に憲法記念日講演会の中で「卒業写真」と「はこべの花は」の2曲を歌いたいとの申し出。

当日のプログラムはこちら。
   ichihara kenpo.pdf

又、終了後のレポートはこちら。
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~quappa/const-050503yoshida.htm


なお、この催しに我々は出演はしていません。


永井和子と神野和博・ささいはるみin 沖縄コンサート
   (2005.8.22作成)

 沖縄行き実現まで 
2003年10月4日(ジョイントコンサート終了)
一緒にステージを作ってくれた永井和子さんから、来年(2004年)沖縄に行こう、という提案。行くとも、行かないとも明言できず。でも、実現すればすばらしいが……。
2003年11月〜2004年2月
永井さん入院。
この頃沖縄でのコンサートと関係なく、永井さんからいただいた泡瀬干潟を守る詩に曲づけをしていた。永井さんからは沖縄に行って泡瀬干潟で歌を聞きたい、と。
2004年3月〜4月
泡瀬干潟の曲の内「ちんぼーらーの独り言」「シロチドリの昔語り」「みんな光って生きている」および「寒緋さくら」の曲付け終了。
永井さんからは新しくイラクの子供たちのことを歌った「ぼくたちが欲しいもの」の詩が送られてくる。
永井さんとの間で手直しを加え、4月後半には「ぼくたちが欲しいもの」を含めて完成。
2004年5月3日〜5月7日
沖縄でのコンサートが実現可能かどうか考えてみようと永井さんと日程、内容等の相談。
日程については、今年初めて沖縄で行われる日本のうたごえ祭典と我々の既に決まっている出演スケジュールを考慮する必要があった。
うたごえ祭典の日程は11月20日〜23日。
我々の出演としては、10月初旬に青森県深浦のうたごえ喫茶、9月後半に関東アコーディオン演奏交流会が入っていた。
11月後半〜12月初旬には次のジョイントコンサートを予定していた。

結局11月5日(金)か7日(日)に行うこととし、会場として考えている首里「アルテホール」を仮予約。
2004年5月8日〜5月15日
プログラム、伴奏者、現地スタッフの検討をはじめる。
伴奏陣はピアノ、三線、リコーダそれと僕のギターを予定し、伴奏譜の手直し作業。
楽譜は永井さん経由で沖縄に送ってもらう。
2004年5月20日
今回のコンサートのテーマ曲になる「歌えジュゴン 海の輝きを」の曲付けが終わり永井さんにデモテープ送付。
全体の曲調、言葉のアクセント等に注文がつきやりなおし。
沖縄で使われている言葉故の難しさがあり、沖縄の友人に電話でアクセントの確認。
2004年6月
現地で中心になって動いてくれるはずの人がうたごえ祭典の方に忙殺されていて、その前後は我々のコンサートの手伝いをすることは無理ということになる。
そこでやむなく2005年3月に延期することにする。
本番でしか沖縄に行くことができず、現地の人に準備の多くの部分をお願いするしかない以上これはやむをえない。
東京〜沖縄が遠く感じる。
でも、ものは考えよう、じっくりと準備期間が取れる。
日程延期を受けて我々のジョイントコンサートを12月25日に「クリスマスコンサート」として行うことを決定。併せて深浦のうたごえ、関東アコの準備に集中。
2004年7月
「歌えジュゴン 海の輝きを」が難産の末完成。
2004年9月
最終的に日程が確定。
2005年3月26日(土) 那覇。首里・アルテ崎山Aホールにて 午後7時から。
2004年10月後半〜12月
 チラシの第一稿出来上がる。
 今回はとりあえず本土の人向け。
 沖縄行きの宣伝をしている中でツアーを組んでみんなで行こうとの企画が国分寺うたう会のなかで持ち上がったため、ツアー参加者募集をチラシに盛り込むことにする。
 レイアウト、共催者の名前、入場料等内容についての詰めに時間がかかり、12月25日のコンサートに間に合うかどうか心配したが印刷まで完了したのが2週間前、なんとか宣伝できる状態になった。
 同時にコンサートツアーの日程も決まる。3月25日(金)に東京を発って3月29日(火)に帰ってくることにする。26日のコンサートをはさんだ4泊5日。ツアーの詳細、旅行会社との折衝等は永井さんにお任せ。こちらは人集め。
 国分寺革新懇の人達がたまたま4月頃に沖縄に行く予定があったことを聞き、それならば一緒に行けないものかと話をする。
その結果3月26日のコンサートに日程を合わせてくれる。ただ、3泊4日の予定のようでコンサート以外は別行動となる。
 12月中には現地向けのチラシ案も出来上がったが、印刷・沖縄への送付は年明けになる。
2005年1月〜3月24日
 年明け早々からコンサートの曲目の最終決定、伴奏譜の手直し、プログラムの作成等に忙しい。
 また伴奏をしてくれる人も急に変更になったり、楽器も変わったりしてちょっと大変。
 自分の練習もしなければならないし。
 プログラムの案が出来上がったのが3月9日。手直しを加えて最終原稿を永井さんに送ったのが3月14日。印刷は永井さんがやってくれることになっている。
 現地の伴奏者に楽譜を送っているものの何も言ってこないことがすごく不安になる。
演奏できるのかどうか、それ以前に練習してくれているのだろうか、そんな心配をしていたところ、3月17日頃連絡があったようで、現地でもようやくあせり始めているようである。(もっともこの心配は無用であった。本番での演奏はすばらしいの一言に尽きる)
 出発直前になって心配なことが発生する。ギターをどうやって沖縄まで持っていくかである。
 飛行機が苦手な僕は飛行機で運べる荷物に制限があるなんてことは知らず、ましてや、ギター程度の楽器が運べないなんてことは考えてもいないことである。
 JALのHPで確認すると持込可能手荷物のサイズからはずれる。また貨物室に預けて楽器が駄目になったという話も聞いた。そんな中、永井さんから大型楽器預かりサービスがあるということを聞きJALに電話。ところがここで言う大型楽器はコントラバス等楽器の種類が決まっていてギターは対象外とのこと。
 結局郵パックで送ることに決め、出発直前の3月22日手配を終える。
 いざ沖縄へ 
 東京 → 那覇
 3月25日沖縄へ。
 那覇行きJAL便の羽田発が朝8:10。ツアー参加者は最終的に7名。娘さんと先に沖縄に向かいコンサートのみ参加1名。またコンサートのみ参加の国分寺革新懇は14名。
 ツアー参加の5名と国分寺駅5時半待ち合わせ。遅れる人もなく羽田に7時頃着。

チケット交換も終了し、搭乗待ち。
 その頃飛行機ぎらいの僕の不安は最高潮。搭乗前か春美が準備したビール、ウィスキーを口に。いざ機内へ、となるがその時点では相当酔っていた。機内でも飲み続けるも手は座席の肘掛をしっかりつかんで離せない。冷や汗で頭はベトベト。
 飛行時間3時間弱。まさに生きた心地がしなかったが何とか那覇空港に到着。
 後から聞くと僕の足は千鳥足状態だったとか。
 辺野古へ
 那覇空港で永井さんと合流。永井さん手配のマイクロバスに乗って辺野古へ。
 美しい海に向かってテントを張り、座り込みを続けているおじいやおばあたち、遠く海のかなたを見渡すとそこには場違いな足場が。
 この美しい海に住むジュゴンやサンゴを犠牲にして、海一面をコンクリートに固めて戦争するための基地にするなんて許せない。
 この海で不思議に思ったのは、磯の香りがしないこと。海が汚れていないからなのか?東京に帰ってネットで調べてみると、サンゴに脱臭作用があるようである。
 リハーサル 
 真夜中のリハーサル
 辺野古を後にして途中中城城址を見た後、ツアーの皆さんはホテルへ。我々と永井さんはリハーサルのためアルテへ。
 アルテでは「ミーバイの汁」と「ラフティ」「じーまみ豆腐」をご馳走になる。美味しかった。季節的にミーバイを仕入れるのは厳しかったようで我々のために特別に準備していただいた。霜鳥さん、ありがとうございました。
 夜8時からリハーサル開始。
 集まってくれた伴奏陣は、ピアノ仲間直美さん、ピアニカ杉田園さん、オカリナ大城全子さん、そして急遽仲間さんの声掛けで来てくれたチェロの佐久本大輔さん。そして歌と司会をお願いしている下田あきのさんはこのリハーサルでキーボードも担当することになる。また、仲間さんの声掛けで子供たちが約10人。
 とにかく今日が最初の合わせで後は明日の午後しか時間が取っていない。
 皆さん今日までの個人で練習していただいていたのだが頼りは楽譜と以前コンサートでやったときの音を録音したCDだけ。
 不安はあったがやり始めるとその不安はすぐに解消。みなさん素晴らしい演奏を披露してくれる。やり慣れているはずの僕のギターが圧倒されるくらいであった。
 そしてなんといっても素晴らしかったのが急遽参加してくれたチェロの佐久本さん。一音聞いただけでその柔らかく温かい音色に圧倒される。一曲だけのつもりがそれではもったいないと次から次へと楽譜を書き足してやっていただくことにする。
 また、子供たちも最初は恥ずかしそうにしていたのだが何回も練習をしていくうちに次第に元気になっていった。
 時間を忘れてリハーサルを続けていると永井さんから”いつまでやるんですか”と言われ時計を見るともう12時近く。
 明日のことを考え今日のリハは終えることとする。
 終了後永井さんとタクシーでホテルに向かい着いたのは1時をまわっていたと思う。
 駄目だしリハ
 3月26日。本番の日。ツアー参加のみなさんはコンサートまでの時間は自由行動。我々は12時頃アルテに着いて食事をした後最後の合わせ。
 昨夜のリハに来れなかったさんしんの上間操さんも加わって本番を想定したリハーサル。
 不安のある曲を重点的に合わせた後、一通りプログラム順に流して終了。
 いざ、本番である。
 本 番 
 オープニング〜第一部
 オープニングは下田あきのさんの歌で「燃えるデイゴの花のように」(曲:杉本信夫

 開演の言葉の後永井さんが紹介されて登場。簡単な挨拶の後「沖縄・首里にて」「ミーバイの汁」を朗読。

 我々が紹介されて花に寄せて沖縄への思いを歌った
「寒緋さくら」「さとうきびの花」を聞いてもらう。

 永井さんが「沖縄と私」について語った後、「じゅーしいセット」「りゅうたんの水辺で」の朗読。

 再び下田あきのさんが登場し、「シンシン玉」(曲:亀口豊次)と神野の曲
「竹富島の星の道」

 朗読「月桃の実」の後、沖縄のための恋歌
「ぶっそうげの花」「本部恋歌」をはるみの歌で。

 宇都宮洋さんの素晴らしい即興演奏にのせて「アカウミガメの言い分」の朗読。国分寺革新懇から参加の畑井さんにお願いして掛け声を入れてもらう

 サッチーさんの「サラサバティ」の後一部の最後は神野のギター、上間さんのさんしんにのせて「あなたが祈るもの」の朗読。
 第ニ部
 ステージにはツアーを組んで参加した「国分寺うたう会」の皆さんとピアノの仲間さんのまわりの子供たちが集まり二部の開演。
 永井さんの「組詩・泡瀬干潟を守るために」誕生の話の後
    @ 
チンボーラーの独り言
    A 
シロチドリの昔語り
    B 
みんな光って生きている

 はるみから昨日のジュゴンの海辺野古訪問の感想の後、今日のコンサートのメインの曲「歌えジュゴン海の輝きを」を歌う。

 岡田京子さんのバックの曲を仲間さんがキーボードで演奏しながら朗読「メヒャンニ〜ふたりの少女」

 今日のコンサートの最後の歌はイラクの子供たちのことを歌った
「ぼくたちが欲しいもの」

 みんなで「えんどうの花」と「てのひらを太陽に」を歌って盛況のうちにコンサートが終了。
 最後に 
 永井さんの「ホシガラス通信」から具体的な数字を。

 入場料を払って聞きに来てくれた人73名、出演してくれた子供12名、地元の応援出演者を含めて舞台に立ったのが10名、音響を一手に引き受けてくれた与那城さん、と総勢93名がアルテAホールを埋めて、ほぼ満員の盛況

 このコンサートがこんなにも素晴らしいものになった裏にはさらに沢山の人達の協力があったおかげである。
 アルテウオーバの会の代表越智さんと会のみなさん、コンサートを成功させる会としてお手伝いいただいたみなさん、美味しい料理をご馳走していただいた霜鳥さん、他にもしかしたら名前が漏れているかもしれませんが、みなさん本当にありがとうございました。
 そして最後になりますが沖縄でコンサートをやろうと誘ってくださった永井和子さん、本当にありがとうございました。空飛ぶ恐怖は解消されませんでしたが、怖い思いをしてもいって良かったと思っています。

 いつものことながらレポをまとめるのが遅くなり、記憶が定かでない点もあるので細かい点では誤りがあるかもしれません。

 でも、当日の感動、感激は今も確かなものとして残っています。